Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://officemasa.blog40.fc2.com/tb.php/75-af165718

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

老人

 かれこれ15年以上前のことだったと思う。初夏の出来事だ。出張の帰り道、丸の内線を降りて、ごった返す東京駅の連絡通路を縫うように歩き、改札を済ませエスカレーターでホームに上がり、上越新幹線に乗り込んだ。土曜日の昼前だったが、自由席車両は、ほとんどの席が埋まっている状態だった。隣の車両に移るといつくか空席があり、そこを確保した。スーツ姿のビジネスマンは少なく、代わりに子供を連れた夫婦などの旅行客が目立った。とにかく座ることができ安堵し、フーッと息を吐き出した。

 発車間際に、白いシャツに茶色の格子柄のジャケットをはおり、白髪を短く刈り込んだ浅黒く長身の老人が、「ちょっといいかねえ」と私に声をかけ、隣の空席に腰を下ろした。70歳、いや80歳くらいだろうか。一見すると、穏やかそうな表情だが、野太い声と横顔からうかがえる深く刻まれた目尻の皺は、精悍な雰囲気を周囲に漂わせていた。

 視線を前方に移すと、この老人の連れと思われる小柄な婦人が、私よりも2列前の3人掛けの真ん中の空席を見つけ、私の隣の老人と目でなにやら言葉を交わして座った。きっと、夫婦二人でこの新幹線に乗ったのだが、席がまばらにしか空いていないため、離れて座ることになったのだ。私は気を利かせたつもりで、「私が前の席に移りますので、奥様とこちらでご一緒にどうぞ」と隣の老人に声をかけ席を立とうとすると、「どうせ家に帰れば、女房と一緒にいることになるんだよ」と老人は笑いながら応じ、手を前方に出し私を制した。

 やがて、新幹線が東京駅を発車すると、すぐに、老人は車窓の左手にある重厚なビルを指差し、「若い頃、あそこで勤めていたんだよ」とつぶやくように言った。(残念ながら、現在その旧国鉄本社ビルは解体され、丸の内オアゾが建っている)そして、そのビルが当時鉄道省の庁舎であり、そこでの初出勤は、建物の余りの巨大さに身が震える思いがしたことなど、自身の半生を語り始めた。新幹線が上野駅を出ることには、すでに私は老人の話に引き込まれ、膝の上の読みかけの文庫本を閉じて鞄に押し込んだ。

 大正の初めに生まれ、学校を卒業し、鉄道省の役人として働いたこと。鉄道省は、大正から昭和初期にかけて、経済発展に伴う交通需要の拡大に対処するため、国鉄私鉄をはじめとする陸上交通全般の近代化を推進する母体であったこと。そこには全国から秀才達が集まり、当時では最先端の職場であったこと。その職場で立派な上司にめぐり合ったこと。たびたび訪れる人生の転機では、その上司の助言がありがたかったこと。その上司とは、1925年鉄道省入省、1941年監督局長、戦後は、運輸事務次官、1964年には内閣総理大臣となった佐藤栄作であったこと。
大東亜戦争では、マレーシアで戦ったこと。その地で左脚に敵の銃弾を受け負傷し、治療施設がある上海まで、化膿した片脚を引きずりながら3カ月かけて必死に歩き続けたこと。その後、傷の後遺症で歩行困難となり、日本に送還され生き残ったこと。戦後は国鉄の仕事で上野新潟間を何度も蒸気機関車で往復したこと。今でも列車からの風景を見るのが楽しみなこと。特にこの時期、赤城山の眺望が美しく大好きなこと。そして老後は、夫婦二人で生まれ故郷の角田山の近くで暮らしていること。

 老人の話が終盤に差し掛かった頃、私が降りる燕三条駅の案内アナウンスがあった。老人の壮大な人生を振り返るには、新幹線のスピードは余りにも速すぎた。本来ならば、蒸気機関車並みの時間の流れが必要であった。私は老人に、途中で席を立つ非礼を詫び、心からの礼を述べた。足元に置いてあった鞄を抱え、婦人にも目礼をして列車を降りた。ホームを歩きながら、動き出した列車を見ると、席が空いているにもかかわらず離れて座ったまま、二人ともこちらを見つめ微笑んでくれた。(小島正晴)
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://officemasa.blog40.fc2.com/tb.php/75-af165718

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。